アンナ・マリア・ヨペック
デビュー以来、常に様々な音楽性を追求し、絶大な人気を誇る実力派シンガー。
父親がマゾフシェ舞踏団の花形ソリスト、母親も同楽団のダンサー兼歌手という音楽家一家に生まれ育つ。幼少の頃より、ショパン、ラヴェル、バッハ、モーツアルトをこよなく愛した彼女は、伝統あるショパン音楽アカデミーで17年間クラシックピアノを学ぶ。卒業後に渡米、ニューヨークにある名門マンハッタン音楽院のジャズクラスで経験を積む。
1997年秋、アルバム『Ale jestem』でデビュー。このアルバムが瞬く間にゴールドディスクを獲得。その後も、ヒット作を多く発表。国外の音楽家との共演も多く、なかでも 2002年にリリースされたパット・メセニーとの共演アルバム『Upojenie』は、ポーランドのアルバム総合チャートで7週連続1位を獲得するという快挙を成し遂げている。これまでにゴールドディスク賞やプラチナディスク賞など多数受賞。
日本には、2005年の愛知万博で初来日し、歌声を披露。その後も、アルバム『Haiku』制作にあたっては音楽を追求するために九州まで赴き、東日本大震災後は歌での支援を積極的に行うなど、これまで何度も来日している親日家。
2014年は「V4+日本」交流年親善大使に就任。仙台および気仙沼での被災者支援コンサート出演や、松下奈緒ら各国の親善大使との共演など、精力的に活動。2019年は日本・ポーランド国交樹立100周年記念事業として神戸と東京で公演を行っている。
幼少の頃に抱いた日本への憧れは強く、毎年のように来日公演を続けながら、日本語訳の付いた作品もリリースしている(2014年『Haiku/俳句』、2019年『Ulotne/幻想』)。
2015年には、芸術分野での実績とポーランド音楽の国外普及活動が高く評価され、ポーランド大統領よりポーランド復興勲章が贈られる。
現在もアーティストとして第一線で活躍しており、近年ではアルバム『Minione』(音楽チャート1位獲得)や『Ulotne』(Empik音楽チャートJazz/Blues部門1位獲得)などをリリースし、好評を博している。
2019年には人気ドラマ 『ヴァイキング 〜海の覇者たち〜』で、サウンドトラックの音楽提供に加えドラマ出演も果たす。2022年には、親交のあるスティングのポーランド公演(PGEワルシャワ国立競技場)に特別ゲストとして出演、2023年には世界中から一流アーティストが集結したスコット・ぺティトのアルバム『Many Worlds』に参加するなど、活躍の幅をますます広げている。
アンナ・マリア・ヨペックの日本との初めての出会い
アンナ・マリアの両親はポーランド国立民族舞踏団マゾフシェの楽団員だった。
両親は外国へ演奏旅行に出かけることもあり、彼女が幼少期を過ごした家には、 共産主義の時代には珍しく、外国からの土産品も多くあったという。
なかでもアンナ・マリア一番のお気に入りは、丁寧に仕上げられた日本からの手描きの花模 様の扇子と、赤と金の絹の着物を着た陶器の人形だった。
幼い日のアンナ・マリアは、それらを長い時間じっと見つめていることが好きで、当時の彼女にとって “美の極み”だったという。
【アンナ・マリア・ヨペック 特別インタビュー】
ポーランド語は〝マイ・サウンド〟
ピョートル・イヴィツキ
ジャズ・フォーラム/2018.5.4/ www.jazzforum.com.pl
時流に乗らず長年にわたり独自の道を歩んできたアンナ・マリア・ヨペック。音楽的にもステージ上でも自分らしく、強力でアーティスティックなブランドを築いてきた。一貫した揺るぎない創造性は、世界の端っこまでアンナ・マリア・ヨペックの声を響かせた。アルバムレビューで高評価を得つつ、コンサートを通して世界のトレイルを巡る。
インタビューを行った時、アンナは日本及び中国で民族音楽バンドのクローケと共演していた。特に日本では何度も歓迎され、頻繁に行われるコンサートのチケットは前売りで完売している。優れた計画性と内面的な調和は、アンナのビジョンに基づいたキャリアに少なからず影響を与えている。
ジャズ・フォーラム: 今、話している時、極東にいますね。世界的によく知られているジャズ・ボーカリストの一人になったのは、疑いの余地なく、一貫した努力の成果です。それはすべてザモシチでのジャズヴォーカリストコンテストから始まりました。当時を思い出すと?
アンナ・マリア・ヨペック:私が初めて獲得した賞は、ベラルーシ・ヴィーツェプスクで開催されたスラヴ・バザール音楽祭でのミシェル・ルグランの個人賞でした。ザモシチでのコンテストの3か月前でした。ザモシチでのヴォーカリストコンテストには参加したことはないですよ。確かに、そのコンテストのファイナル・コンサートに出演しましたが、それはインフルエンザにかかってしまった偉大なボーカリストの代役としてでした。アンドレィ・ヤゴジンスキの『ポーギーとベス』のプロジェクトでした。 アンドレィは私のことを信じてくれたから、一晩で一生懸命にレパートリーを学んで、何事も無かったかのようにスターと一緒に舞台に立ちました。そのように幸運に恵まれたことは何度もありました。他の人たちは苦労しながら10段階を通過しなければならなかったのに、私にはチャンスという「アップグレード」が与えられました。すべてのチャンスをつかみました。十分に準備ができているということを実感したことはなかったですが、本能的に、衝動的に行動して、あまり深く考える時間もなかったです。たくさん学んで、ストレスによる胃痛をかき消しながら、 何があっても前に進み続けました。私の名前はブランドである、一貫性があると言ってくださり、ありがとうございます。それはとても心強いです。私は優れた価値の創造ができたとは感じていません。単に最善を尽くし、幸運に恵まれました。
ジャズ・フォーラム: アンナさんは、クラシカルな訓練を受けた多才なピアニストですね。ジャズとクラシック、どちら?という岐路に立ったのはいつですか?
アンナ・マリア・ヨペック:ピアノは全くもって私の自然な選択ではありませんでした。音楽教育により、ピアノに人生の17年間を捧げることを余儀なくされました。しかし、私が最も望んでいたのは、歌うことでした。私は家族の中で3代目の歌手です。曽祖母の一人はオペラ歌手でした。マゾフシェ舞踏団の花形ソリストである父は、歌うことが不安定なキャリアだと考え、私のピアニストとしての成長を懸命にサポートしてくれました。高校の最終学年に、1日に8時間ピアノを練習して、フレデリック・ショパン協会より奨学金を獲得しました。その後は、ショパン音楽アカデミーに入学して、ヤン・エキエル教授の学部で、カワラ教授の指導の下ピアノを習いました。エキエル教授は私のことを少し守ってくれました。私の心の中で別の音楽が響いていることに気づいて、それを理解してくれました。数年後に教授は天文学者でもあることを教授のアシスタントから教えてもらいました。 ・・・つづく
(このインタビューは続きは、翻訳が完成次第、掲載致します。)